LINEでしか繋がれないパラレルワールドの東京で生きる男女。やがて一方の世界で感染症が発生し――。桜庭一樹が新作小説で描き出した私たちのリアル

文芸・カルチャー

公開日:2023/8/3

彼女が言わなかったすべてのこと
彼女が言わなかったすべてのこと』(桜庭一樹/河出書房新社)

 パラレルワールドという空想上の設定はあるものの、それ以外は特に奇想天外な出来事が起こるわけではなく、ドラマティックな展開があるわけでもない。病と共に生きる30代女性の繰り返しの日々が日記のように丁寧に綴られていく。だが、淡々としたストーリー展開とは対照的に、突きつけられるものの衝撃は大きい。本書『彼女が言わなかったすべてのこと』(河出書房新社)で桜庭一樹氏は、また一つ小説の新しい可能性を見せてくれた。

 2019年9月の終わり、通り魔事件に偶然居合わせてしまった小林波間(なみま)は、そこで学生時代の同級生、中川と再会する。LINEを交換し、後日待ち合わせをするが、時間になっても彼は現れない。試しにビデオ通話を繋げてみると、互いの画面に映っているのは色違いの東京スカイツリー。どうやらふたりはパラレルワールドの東京を生きているようなのだ。

 波間と中川、ふたりを繋げるツールはLINEのみ。メッセージを通じてそれぞれの世界について情報交換をして交流を深めるが、年が明けてしばらくすると中川のいる世界に新型コロナウイルスの感染症が蔓延し始め、あらゆる状況が急速に変化していく。

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 彼の世界で起きる出来事は、波間からすればまるでパニック映画のようだ。感染症のせいでマスクやトイレットペーパーなどの物資が不足したり、医療機関では病床が足りなくなったり、世界各国で国境が封鎖されたり。語り手の波間ではなく、中川の方の世界に新型コロナウイルスを登場させることで、実際にコロナ禍を経験した読者はあの3年間を客観的に見直せる設定になっているのだ。

 一方の波間の世界では、新型コロナは蔓延することなくこれまでと変わらない日常が過ぎ、東京オリンピックも予定通り2020年に開催される。だが、波間個人には大きな変化が訪れていた。32歳の夏の初め、悪性腫瘍が見つかったのだ。そこから始まる点滴治療、手術、放射線治療の日々。副作用による苦しみと、何より、未来への不安を抱えながら、波間は病気のことを中川には言えずにいた。

 LINEでは繋がっていても、絶対に触れることはできない中川側の世界に思いを馳せることで、波間は自分の生きている世界や人生を見つめ直す。コロナ禍はなくても、冒頭の通り魔事件や電車内の傷害事件、SNSでの誹謗中傷など誰かが犠牲になる事件はあちらの世界もこちらの世界も関係なく発生する。自身の病気のことも含め、波間は次第に、事件や病気の当事者がある種の悲劇的なドラマ性を求められ、大衆に消費されていくことに怒りを覚えるようになる。

 ままならない日常の中で、孤独と不安に苛まれつつ一日一日を踏みしめるように生きる波間。中川との再会とパラレルワールドの存在を通して彼女が見出したものは、今を生きる私たちにもきっと必要な視点だ。

 タイトルの〈彼女が言わなかったすべてのこと〉とは、波間の内に秘めた叫びであると同時に、現実の私たちが言えないまま内に秘めている怒りや不安のことでもある。現実にコロナ禍を経験した私たちだからこそ共感できる物語を、桜庭氏は紡いでくれたのだ。

文=林亮子

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