「四面楚歌」の語源となった「楚歌」の存在をひもとく。読者の知的好奇心を刺激し、学びへと誘う歴史小説『楚歌 屈原幻想伝』

文芸・カルチャー

PR公開日:2023/11/1

楚歌 屈原幻想伝
楚歌 屈原幻想伝』(秋生騒/文芸社)

「四面楚歌」――誰もが耳にしたことのある四字熟語で、その意味は広く知られている。周囲が敵対者ばかりで、味方がいない状況を表した言葉。それが、四面楚歌である。この言葉が生まれた背景は、「史記-項羽本紀」に記されている。かつて中国の覇権を争っていた楚の項羽(こうう)が、敵方の漢軍に包囲される最中、祖国の愛歌である「楚歌」を多くの漢軍が唄うのを聞き、楚民の大半はすでに漢軍に降伏していた事実に絶望したことから「四面楚歌」なる四字熟語が生まれた。

 上記の史実は広く知られる一方で、漢軍から湧き起こった「楚歌」の歌詞は後世に伝わっていない。秋生騒氏による『楚歌 屈原幻想伝』(文芸社)は、そんな楚歌が生まれた背景をひもとくべく、数少ない資料から楚歌を生み出した人物の生涯と歴史的背景を描き出した意欲作である。

 資料に残っていたのは、「楚歌」は楚の詩人である屈原(くつげん)が書いた『離騒』という詩がもとになっていること。また、屈原が遺した数少ない詩と、司馬遷が『史記』の中で記したわずかな経歴のみであった。資料の少なさゆえ、“幻想論”という形式の論文ではなく、“虚構の小説”という形で「楚歌の復元」に挑んだ著者の胆力には、驚きを禁じ得ない。

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 本書は、政治家と詩人の二つの顔を持つ屈原の生涯を辿る歴史小説である。先に述べた通り確固たる資料は存在しないものの、著者が紡ぐ物語はロマンに満ち溢れ、当時の中国の歴史に即していることから、説得力あるストーリーとなっている。

「楚歌」の生みの親である主人公の屈原は、清廉潔白な人物であった。甘言だけを囁く周囲の百官たちとは一線を画し、王と国のためを思えばこそ必要な苦言を呈することを躊躇わぬ屈原は、その潔癖さゆえに敵も多かった。いつの世も、正しいことを言う人ほど淘汰されやすい。私腹を肥やすことしか頭にない者、国の存続より己の身上だけが大事な者たちにとって、屈原は邪魔な存在でしかなかった。

 もちろん、屈原の周りにいたのは敵だけではない。真っ直ぐに国と民を思う屈原は多くの民衆に愛され、詩人としての彼を師匠と敬う者もいた。何より、彼が幼少の頃より側近として仕えていた汪立(おうりつ)は、屈原の人となりを愛し、創作物を愛し、彼の人生がより良いものになるよう心から願っていた。しかし、屈原を疎ましく思う者たちの謀略により、屈原は政治の中枢から排除される。

 楚の王・懐王(かいおう)は、判断力、決断力ともに欠ける人物であった。口先だけで国の存亡をかき回す縦横家(外交の策士として各国間を行き来した人々のこと)の口車に乗り、愛する寵姫の禍々しい本性にも気づかず、誰よりも国を思う屈原を追いやった懐王は、あまりに愚かである。

 屈原は懐王の判断を嘆き、己の身の上に絶望した。正しく孤高に生きる者に、世間は優しくない。それでも屈原は“正しくあること”を手放さず、身の内にあふれる焦燥を『離騒』という独創性の高い辞に込めた。それは現代でいうところの私小説にあたる表現であり、屈原の創作における天賦の才を知らしめる作品であった。

“世間は汚れ濁り賢い者を妬む〈兮〉
好んで清廉を隠し醜さを称える”

 屈原が綴った辞は、紀元前のはるか昔に生まれたものだ。だが、令和の現代にも通ずる部分が多々ある。汚れや濁りに目をつむり、清廉な者を阻害する。そうやって肥え太る組織や個人は、悲しいかな少なくない。

 屈原の死後、彼を慕う西嬌なる人物は『離騒』をどうにか市井の人々に残すべく、その方法を思案した。『離騒』の全文は372句にも及ぶため、全文を覚えることは不可能であり、木簡や竹簡に転記するにも難儀であった。悩み抜いた末、西嬌は辞の一部を選別し、歌謡にすることを思いつく。

 本書には、「四面楚歌」以外にもいくつかの故事成語が登場する。本書との出会いを契機として、故事成語が生まれた背景に強く興味を抱いた。物語そのものや屈原という魅力的な主人公に思いを馳せるにとどまらず、読者の知的好奇心を刺激し、学びへと誘う一冊でもある本書は、多角的な魅力にあふれた作品といえるだろう。

文=碧月はる

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