論破ブームが生んだ弊害は「訂正する力」の欠如。東浩紀が教える、あやまちを認め訂正に寛容になり自分を正していく力

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更新日:2024/1/18

訂正する力
訂正する力(朝日新書)』(東浩紀/朝日新聞出版)

 意見をコロコロ変える人は信用しづらいが、周囲の意見に耳を貸さず、一貫して主張を変えない人もしんどい面がある。SNS時代で自分の意見を貫き通そうとすることで、人と衝突することもままある。

訂正する力(朝日新書)』(東浩紀/朝日新聞出版)は、今の時代、政治家は謝らず、官僚は間違いを認めないことに代表されるかのように、日本には「変化=訂正を嫌う文化」がある、と述べる。変化の時代にあって、日本は依然、魅力的な国である一方、先述の文化から、様々な分野で行き詰まりがある、と本書。日本を立ち直らせるためには、トップダウンによる派手な改革ではなく、一人ひとりが現状を変えていく地道な努力が欠かせないと説いている。そこで必要となってくるのが、本書名でもある「訂正する力」なのだそうだ。

 本書によると、かつて日本は訂正する力で成長してきた。中国に接したら中国の文化を受け入れ、欧米がきたら欧米の文化を受け入れる。野放図のようだが、日本語をローマ字化する運動が潰れたり、天皇制が続いたりと、肝心なところは変えていない。改革に開かれているように見えても保守的。そんなしたたかな日本であったが、近年は先人たちの力を失いつつある、と警鐘を鳴らしているのだ。

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 本書が挙げる「訂正する力の弱小化」を示す例に、「マスク」問題がある。同調圧力によってマスクを強いられ、いまだに取りづらい人も見かける。他にも、「論破ブーム」が挙げられている。議論は勝敗で判定されることが一般的になり、謝ったり、意見を譲って妥協したりしづらくなっている。その瞬間、相手から「論破した」と言われてしまうからだ。

 では、どうすれば訂正する力を発揮できるのか。本書は、1950年代に数学者アラン・チューリングが考えた「チューリングテスト」という思考実験を紹介している。この実験は、AIと人間を用意してどちらかわからないようにし、多数の被験者にこの両方と話してもらう。そして、被験者はAIか人間かを判断する。この回答が1対1くらいの比率になれば、人間にとって区別がつかないということで、AIを実質的に人間とみなしてよい、というのがこの実験の主張だ。

 しかし、実際はAIを実質的な人間とはみなせない。例えば、人間側が相手に好意を抱いていたとしても、AIであると告知された瞬間に恋心は失せる。つまり、「騙された」と思うわけだ。このとき、人は「話が違う」と判断し、それまでのイメージを修正し、「じつは…だった」と新しいイメージと整合性を形成する。

 本書によると、この「じつは…だった」が訂正する力であり、これを今の時代の中でよりうまく活用する方法を推奨している。ただ、野放図に使うと“過去を都合よく書き換える場当たり的な人間”になってしまう。「じつは…だった」をネガティブではなくポジティブに使う方法については、本書にあたってもらいたい。

 本書が述べるに、人生は訂正の連続である。若い頃の過ちを訂正し続け、同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していきつつ老いていく。こう考えると、訂正することは誤ったことでも恥ずかしいことでもなく、自然である。そして、訂正する力に寛容になり、自らもうまく使えるようになることによって、より生きやすくなるはずだ。

文=ルートつつみ (@root223

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