29歳無職の主人公が老人ホームで見つけたものは…瀬尾まいこさん最新作は一歩を踏み出す勇気をくれる物語

文芸・カルチャー

更新日:2021/2/27

その扉をたたく音
『その扉をたたく音』(瀬尾まいこ/集英社)

 瀬尾まいこさんの小説はいつも、とても優しい。でもただ優しいだけじゃなくて、主人公も読んでいる人も甘やかさないピリリとしたスパイスが効いている。その塩梅があまりに絶妙だから、読み終えたときには傷ついていた心がわずかに癒され、自力で一歩を踏み出してみようという勇気が湧いているのだと思う。最新作『その扉をたたく音』(集英社)の主人公・宮路はだいぶ甘ちゃんだけれど、それでも、その読後感は変わらない。

 宮路は29歳、無職。実家から毎月ふりこまれる20万円の仕送りで生活する彼はギターを片手に音楽の夢を追い続けている。といってもデビューのアテがあるわけでもなく、物語の冒頭で彼が演奏する舞台は老人ホーム・そよかぜ荘。観客である老人たちは白けた雰囲気を隠そうともしない。そんな宮路の前に現れたのが、ホーム職員の渡部。彼の吹くサックスは老人たちだけでなく宮路をも魅了し、そよかぜ荘に足しげく通うことに。

 この渡部と宮路のやりとりが、読んでいてまあ、ハラハラする。家庭の事情で小学生の頃から祖母と2人暮らしの渡部には、仕事をさしおいて夢を追いかける余裕なんてない。それなのに「才能がもったいない」「一緒にもっと広い世界に出よう」と宮路はうるさい。初対面の入居者の老女・水木にぼんくら呼ばわりされるのも当然の無神経さだし、キレずに応対し続ける渡部との、人間としての出来の違いがきわだつばかり。その応対能力の高さに、介護士の仕事のなんたるかも垣間見える。

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 渡部もただの好い人ではなく、本人に向かって「ばかだと思ってる」と言い放つし、必要のないことは容赦なく聞き流す。それでも、仕事相手でもなんでもない宮路を切り捨てようとはしない姿に、彼がこれまで積み重ねてきたのであろうあきらめと、ばかで甘ちゃんで自分とは真逆の人生を歩んでいる宮路へのほのかな憧れが伝わってくる。作中では渡部の心中がセリフ以外で語られることはないけれど、だからこそ、よりいっそう2人の対比がきわだって、物語は深みを増していくのである。

 自分がどんな人間かなんて、ひとりきりでいるうちはわからない。たとえ気の合わない相手だったとしても、誰かと触れあい言葉をかわすなかで、自分が何に驚き何に笑い、そして何に泣く人間なのかが見えてくる。そよかぜ荘で出会った水木に指示され、宮路はいつのまにか老人たち相手の買い物係・レクリエーション相手としてこき使われることになるのだが、文句を言いながらも宮路はいちいちきまじめに対応していく。あきらめが悪くて頑固だけど、押しに弱くて流されやすい。無神経だけど、情にはもろい。そんな宮路の人としての“かたち”が浮かびあがっていくにつれ、妙にほだされ肩入れしてしまうのだけど、それはきっと、水木も渡部も同じなのだろうと思う。“先”の見えている老人たちと関わるには、あまりに傷つきやすくて覚悟のない彼にあきれながらも、いつのまにかそのしょうもなさに癒され、心が奮い立たされていく。

 こういう背中の押され方もあるのだ、と思う。〈ぼんくらが落ちこんでいようが、現実世界は動くんだよ〉というのは水木の言葉だけれど、誰かと触れあっても触れあわなくてもどのみち世界は動いていくし、大切な誰かは生きて死ぬ。だったら、関わったほうがいい。言葉も、歌も、心も、すべて自分と誰かを動かすほうに使ったほうがいい。ものすごく些細な力で、そこになんの“意味”もなかったとしても。

 なぜ渡部のサックスがあれほどまでに胸を打ったのか、その答えに宮路がたどりついたとき、読者もまた一歩を踏み出す勇気をもらっている。

文=立花もも