「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」この就活の問いは根本が間違っている!?/君が手にするはずだった黄金について①

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/18

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第1回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。

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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

プロローグ

「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問で、それまで順調だった僕の手が止まってしまった。この質問は何を意味しているだろう、としばらく考えこんだ。

 二〇一〇年、僕は大学院生だった。就職活動でもしてみるか、と思いたち、散らかった部屋の中央にラップトップを置いた。部屋が散らかっていたのは僕のせいではなく、ジョン・アーヴィングのせいだった。どれだけ入念に掃除をしても、ジョン・アーヴィングが勝手に逃げだし、ロバート・A・ハインラインの上にまたがったり、夏目漱石と取っ組み合いの喧嘩をしたりした。足元に散らばった坂口安吾を机の上に置くと、反対側からウィトゲンシュタインが落下した。ウィトゲンシュタインを収納するためには、プラトンかアリストテレスのどちらかを追い出さなければいけなかった。

 なるほど、僕は本に関わる仕事をするべきなのかもしれない。床に寝転がった文豪や哲学者たちの名前を眺めながら、どの出版社を受けてみようか考えてみた。僕は来年、この部屋に存在する本を出版しているどこかの会社に入社するのだ。毎朝、飯田橋やら神保町やらに出勤し、作家とやりとりをして、原稿を読んで、本を作る。

 悪くはなさそうだったが、あまりイメージは湧かなかった。驚くべきことに、その瞬間まで、僕は自分の将来について具体的に考えてみたことがほとんどなかった。

 多くの出版社の中から、とりあえず新潮社のエントリーシートを取り寄せてみた。それほど深い理由はなかった。僕は新潮社の本をたくさん持っていたし、その中には人生のベスト100に入るような本がたくさんあった。スタインベック、ディケンズ、モーム、サリンジャー、カポーティ。太宰治もあったし、村上春樹もあった。お金がなくてあまり頻繁には買えなかったが、クレスト・ブックスには外れがなかった。本の冊数だけなら講談社や角川書店も同じくらい持っていたが、漫画の部署に飛ばされる可能性が高いのではないかと勝手に推測した。幸運なことに、僕は新潮社の漫画本を一冊も持っていない。

 机の上で抱き合っていたスタニスワフ・レムとフィリップ・K・ディックを僻地に追いやって、僕は新潮社のエントリーシートを広げた。名前を書いて、経歴と資格を書いた。所属する専攻の正式名称が心配になって、学生証を確認した。

 そして、「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問に到達した。

 まず僕は、円グラフを新潮社の本のタイトルで埋めようとした。『怒りの葡萄』、『ガープの世界』、『夫婦茶碗』。三冊分のタイトルを書いてから、「違う」と思った。僕の人生は名作小説によって構成されているわけではない。駄作もたくさん読んできたし、漫画もたくさん読んだ。そもそも読書よりも多くの時間を、僕は睡眠に費やしている。「酸素」「炭素」「水素」「窒素」「カルシウム」という回答も思いついた。しかしそれは「人生」ではなく、「人体」の円グラフだ。

 もちろん、質問の意図はわかっているつもりだ。それほど深い意味のある問いかけではない。人生において重要だったもの――今の自分を構成していると思うものを適当に挙げればいいのだろう。たとえば僕は小学一年生から大学四年生までサッカーをしていた。趣味は読書とテレビゲームで、大学院生になってからは研究と塾講師のアルバイトを交互に繰り返す生活だった。学費を払ってくれた親には感謝していたし、休日は友人と会って酒を飲んだりする。僕が考える模範的な回答はこうだ。「サッカー」「読書」「テレビゲーム」「研究」「塾講師」「親」「友人」。

 でも僕は、その円グラフを描くことができなかった。単に間違いだからだ。哲学者ギルバート・ライルの言葉を借りれば、「カテゴリー・ミステイク」にあたる。たとえば知人を大学に案内したときのことを考える。図書館や講義棟を回ったあとに、知人から「それで、大学はどこにあるの?」と聞かれたら、戸惑ってしまうだろう。この友人は「カテゴリー・ミステイク」を犯している。図書館や講義棟は建物というカテゴリーに属しており、大学はそれらの建物をまとめた集合を示しているからだ。「私は日本語と英語とフランス語と言語ができます」という自己紹介も、同じ間違いを犯している。

「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問における問題点は、カテゴリーが決められていないことにある。「人生」は幅の広い概念だ。時間という側面も持つし、経歴という側面も持つ。物理的な側面もあるし、概念的な側面もある。カテゴリーを揃えようとすると嘘っぽくなってしまうし、模範的な回答を書こうとすると「カテゴリー・ミステイク」を犯してしまう。「読書」と「友人」のどちらが人生において重要だっただろうか。そんな問いに答えはないし、二つを数字の割合にして合計することにも意味がない。そもそも問いが間違っているからだ――白紙のエントリーシートを広げたまま、僕は美梨みりに向かってそんな話をした。

「『あーめんどくさ』って思ったでしょ?」

 そう聞くと、ソファに座っていた美梨が「よくわかったね」とうなずいた。「正直言って、めんどくさ、って思った」

「こんなことを気にしても意味がないってことくらい、よくわかってるよ。屁理屈は押し殺して、相手が求める答えを書けばいいんだろう。でも、1+1=3と書くと気分が悪いんだ」

「じゃあ、正直に書けばいいんじゃない?」

「正直に?」と僕は聞く。

「『この設問は前提となる条件が足りていません。カテゴリーなんちゃらという哲学的重罪を犯している可能性があり、大学で哲学を勉強していた私はその犯罪に加担したくありません』っていう文章を円グラフの内部に書くの。案外、人事は気に入るかもしれない」

「そんな人間、僕だったら絶対に採用したくないな。そいつが入社したら、日常業務に支障をきたしそうだし。『このハンコに意味があるんですか』とか言いそうじゃん」

「言わないの?」

「僕は言わないよ。経済活動のかなりの部分が、形式的で無意味な行為に支えられていることくらいよくわかってる」

「妙に物分かりのいいところが、余計にめんどくさいね」と言って、美梨はテレビをつけた。

「悪かったね」

「でもまあ、エントリーシートを取り寄せたことは、人間として大きな進歩なんじゃないかな」

「進歩?」と僕は聞く。

「そう、進歩」と美梨がうなずく。

 すべての局所的な進歩は、大局的な退化である――別に誰かの箴言しんげんではない。僕が今考えた言葉だ。といっても、起源を主張するつもりもない。おそらく僕でない誰かも、同じようなことを言っているに違いない。

 僕たちは日々、局所的に進歩する。自分にとって気にならないことが他人にとって重要であることを知り、理屈として納得のいかない手続きが社会を動かすために必要であると知る。すべての政治家が世界を良くするために生きているわけでないことを知り、清廉潔白そうなアイドルがカメラのない場所で私利私欲に走っていることを知る。カッコいいヒーローを生みだした漫画家はカッコいいヒーローではないと知り、慈善事業が税金対策として行われていることもあると知る。生きることとは、そういった不純さを受け入れ、その一部となり、他の大人たちと一緒に世界を汚すことだと知る。それでもなお、自分に何ができるかを探すしかないし、かといって何もできない人を責め立てても仕方がないと知る。

 そういった知識を蓄えていくことは、たしかに局所的な進歩ではある。でも、結局のところ人間という不完全な存在が、社会という不完全なシステムを動かすために生みだされた必要悪や建前であり、必要ではあるけれども結局悪は悪で、嘘は嘘だ。僕たちは局所的な進歩の過程で悪と嘘を内面化していく。それが大人になるということの一部なのは間違いないが、同時に人間としての退化でもある。僕は成長し、進歩して、これまで理解できなかったことが理解できるようになった。許せなかったことが許せるようになった。エントリーシートを取り寄せることができるようになった。その代わりに、いくつもの怒りや悲しみや喜びを失ってしまった。

 僕にとって就職活動とは、人生を受け入れることを意味していた。社会という犯罪に加担することを意味していた。しかし、それでもやはり、僕たちは大人にならなければならない。

 哲学者のバートランド・ラッセルは、あらゆる固有名が短縮された確定記述であると考えた。簡単に言えば、「名前とはさまざまな記述を束ねたものである」という主張だ。たとえば「アリストテレス」という固有名は「プラトンの弟子」「アレクサンダー大王の家庭教師」「人間の本性は知を愛することにある、と考えた人物」のような、いくつもの記述の束として存在している。そういった記述を無数に積み重ねることで、「アリストテレス」という人物を「アリストテレス」という言葉を使わずに特定することができる。

 就職活動において僕は、自分の固有名をいくつもの記述に分解していく行為を強いられている。僕という人間と同義になるまで、僕の特徴を列挙していく。そうして生まれた大量の記述のうち、どれが「企業が求める人材」という要素と重なるかを検討する。

 僕の人生は再構成を余儀なくされる。これまで並列していた記述に強弱が生まれ、「企業が求める人材」にそぐわない記述が、僕という人間から削ぎ落とされていく。

「『あーめんどくさ』って思ったでしょ?」

 ソファでぼんやりとバラエティ番組を見ていた美梨に向かってそんな話をした。エントリーシートはもちろん白紙のままだった。

「いや、その通りだと思ったけど」

「え?」と僕は思わず聞き返す。

「いや、ちゃんと話を聞いてたわけじゃないからわかんないけど」と言って、美梨はテレビを消した。「社会が悪と嘘だらけっていうのもそうだし、就職活動がその適性試験であることもそうだし。自分の特徴を会社に合わせて都合よく組み合わせるっていうのも、その通りじゃない?」

「意外な反応だね。テレビはいいの?」

「ああ、うん。別にそんなに面白くなかったし。少なくとも哲学の話の方が面白かった」

 それから僕は、美梨に向かって分析哲学の話をした。ラッセルの話をして、クワインの話をして、クリプキの話をした。

「ラッセルさんによれば、私という人間が、『千葉県船橋市出身の女性』『中川敏也なかがわとしやと中川加奈子かなこの間に生まれた』『一九八六年五月二十一日に生まれた』『伊藤忠に勤めている』『さまぁ~ずとアンタッチャブルが好き』みたいに分解できるってこと?」

「そう。分解できるし、分解してできた記述を足し合わせたものと、中川美梨という固有名はイコールで結ばれると主張したわけ。でも、クリプキはそれが間違っていると考えた。たとえば、新たな歴史的史料が発掘されて、アリストテレスがアレクサンダー大王の家庭教師ではなかったことが判明したとする。ラッセルの記述理論が正しいとすると、少々困ったことになる。もし固有名が確定記述であれば、その確定記述に間違いがあったとき、アリストテレスという固有名自体が矛盾してしまうことになるからね。でもそれは直観に反する。仮にアレクサンダー大王の家庭教師でなかったとしても、アリストテレスはアリストテレスだ」

「なんとなくわかるような」

「クリプキはラッセルと違い、現実とは無数の可能世界のうちの一つにすぎないと考えた。ある可能世界では、アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかったかもしれないし、美梨は伊藤忠に勤めていなかったかもしれない。人々はそういうシチュエーションを想像することができる」

「もし私が伊藤忠に勤めていなかったとしても、私という存在に矛盾が生じるわけではない」

「その通り。クリプキは、固有名には確定記述を超えた何かが存在すると考えた」

「何?」

「長くなるけど、時間は大丈夫なの?」と僕は時計を指さした。午前零時過ぎだった。

「ああ、明日も仕事だった」と言って、美梨は立ちあがった。「じゃあ、今度の楽しみにしておく」

「うん」

 僕は彼女を代田橋駅まで送った。駅まで走らなかったせいで終電を逃してしまって、甲州街道でタクシーを捕まえ、彼女を乗せた。タクシーを見送ってから、近くの自販機で缶コーヒーを買い、すっかり寒くなった帰り道を一人で歩いた。

 終電が行ってしまって開きっぱなしになった踏切を渡りながら、美梨の「今度の楽しみにしておく」という言葉を思い出した。僕は「今度の楽しみにしておく」が苦手だった。興味のある事柄を知ると、すぐに飽きるまで調べ尽くした。わからないことがあれば、わかったつもりになるまで他の話は一切頭に入らなかった。なんとなく読みはじめた漫画を夜通しで読みふけり、続きが気になって深夜も開いている書店まで行った。僕と美梨の一番の違いは、「今度の楽しみにしておく」ことができるかできないか、にあるのかもしれない。だから僕は、老後の生活を楽しみにしながら会社勤めをする、とか、週末を楽しみにして平日を過ごす、という考えがしっくりこない。今、この瞬間、僕は何かを我慢したくない。

<第2回に続く>

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