『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男とは付き合わないほうがいい/君が手にするはずだった黄金について②

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/19

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第2回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。


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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 美梨とは付き合って三年くらいになる。決して一目惚れではなかった。百目惚れですらなかった。そもそも彼女は僕の好みの見た目ではなかったし、同様に、僕も彼女の好みの見た目ではなかったはずだ。

 最初に彼女の名前を知ったのは十三年前だった。当時の僕は小学五年生で、近所の小さな学習塾に通っていた。その学習塾は僕の家の近くと西船橋の二箇所にあって、僕は二つの校舎を合わせた定期テストでいつも一位を取っていた。五年生の途中で西船橋の教室に中川美梨が入ってきて、僕は初めて一位を逃した。悔しかった、というわけではない。当時の僕は、テストに一位以外の順位が存在することに対して純粋に驚いていた。それからはずっと彼女が一位で、僕が二位だった。次第に、僕はテストとは二位を取るものだと考えるようになった。

 いろんな事情があって、僕は中学受験をしなかった。美梨も同じだった。どんな事情があったのか、あるいは別に事情があったわけでもないのか、一度も聞いたことはなかったけれど、とにかく彼女も中学受験をしなかった。そうして僕たちは高校生になり、同じ高校に進学した。

 僕たちは教室でお互いの存在を認識すると、かつての塾の話で盛りあがり、すぐに仲良くなった――というようなことは起こらなかった。高校時代は一度も同じクラスになったことはなかったし、ほとんど喋ったこともなかった。高校二年生のときに、一度だけ文化祭の委員会で事務的な話をする機会があり、その流れで塾の話をした。「いつも一位だったよね?」と僕が聞くと、彼女は「そうだっけ?」と答えた。それだけだった。

 僕はマクドナルドでアルバイトを始め、そこで知り合った他校の女の子と付き合ったけれど、高校三年生の八月に受験を理由にフラれた。逆に、美梨は部活を引退した野球部の四番と八月から付き合いはじめた。よく、予備校で二人を見た。坊主から解放された短い髪をワックスで固めた四番と、いつもと違ってやけに静かな中川美梨。二人はいつも自習室の隣同士に座り、バンプ・オブ・チキンのアルバムが入ったMDを片耳ずつ分け合いながら勉強していた。昼休みになると手を繋いで出ていって、手を繋いで自習室に戻ってきた。僕は最初から最後まで、机にかじりついて一人で勉強していた。そうして僕は東大に合格し、彼女は東大に落ちて早稲田に進学した(ちなみに、野球部の四番は浪人した)。

 僕と美梨の関係は、知人以上、友人未満といったところだろうか。ミクシィという当時流行はやっていたSNSで、ぎりぎりマイミクの仲だった。彼女はときどき日記を書いていた。どこどこに旅行したとか、誰々と久しぶりに食事したとか、サークルの飲み会があったとか、そういうありふれた内容だった。僕は日記を書かず、読んだ本のリストを更新し続けていた。本の感想を書くこともなかった。ただひたすら、自分が読んだ本のリストを作っていた。

 大学一年生のある日、美梨からダイレクトメッセージが届いた。彼女は「読書を趣味にしたいから、面白い本を貸してほしい」と言ってきた。僕が「どんなジャンルが読みたいの?」と聞くと、彼女は「読書家から一番趣味がいいと思われるジャンル」と答えた。

 僕はしばらく考えた。「好きなサッカー選手は誰か?」と聞かれて「ロナウジーニョ」と答えると、たしかにミーハーだと思われるかもしれない。ロナウジーニョは素晴らしい選手だが、あまりにも有名すぎる。そこで「パベル・ネドベド」と答えたら、趣味が良さそうな気がする。

 僕は正解に確信が持てないまま、ポール・オースターの『ムーン・パレス』を持って、SHIBUYA TSUTAYA内のスタバで彼女と会った。僕は疑問を二つぶつけた。一つは「どうして『読書家から一番趣味がいいと思われるジャンル』の本を読みたいのか」で、もう一つは「どうして僕から借りようと思ったのか」だった。

 美梨は二つ目の質問には簡単に答えてくれた。「知り合いの中で、一番本を読んでそうだったから」らしい。一つ目の質問にはなかなか答えてくれなかったが、僕が「本を借りる目的がわからないと『ムーン・パレス』がふさわしい本かどうかわからない」と言うと、少しずつ真相を教えてくれた。気になっているサークルの先輩が読書家なので、話を合わせるために小説を読みたいと思ったが、趣味の悪い本の話をして幻滅されたくなかったから、だそうだ。

「その先輩が普段どんな本を読んでいるかわからないけど」と僕は言った。「『ムーン・パレス』を読んでいる人に幻滅するような男なら、そもそも付き合わない方がいい」

 美梨は僕のその言葉に満足したようだった。帰り際、僕は彼女に「そういえば、野球部の四番とはどうなったの?」と聞いた。

「夏に振られたよ」と彼女は答えた。「今でもあんまり納得してないけど」

「なんで?」

「私と一緒にいると、勉強に集中できないんだって。受験の邪魔をしないように付き合ってたのに」

「なるほど、それは悲しいね」

「うん、悲しかった。ようやく立ち直ったところ」

 僕は彼女に『ムーン・パレス』を渡し、そのまま解散した。それ以来僕たちは会わなかったし、連絡を取り合うこともなかった。

 

 それから、僕たちの間には何もないまま一年が経った。

 僕は相変わらず、読んだ本のリストを更新していた。リストが二百冊を超えたとき、僕は唐突に「自分はなんのためにこのリストを更新しているのだろうか」という実存的な問いを抱いてしまった。僕の友達に、読書が趣味の人間はいなかった。正確には、僕のように読書をしている人間は一人もいなかった。僕は一人で粛々と本を読み、そこで得た知識や感情を何かに活かすこともなく、ひたすら内側に溜めこんでいた。ミクシィに公開していた読書リストは、孤独に読書をしている僕が世界と接続している唯一の場所だった。しかしその場所だって、別に誰かが熱心に見てくれているわけでもない。

「僕はなんのために、こんなに本を読んでいるのだろう」

 今にして思えばくだらない問いだが、当時の僕はかなり真剣だった。それくらい真剣に本を読んでいた(こういった感情を抱かなくなってしまったことも、ある種の進歩と退化だ)。

 不安とも虚無ともとれる無能感の中で、僕は中川美梨に「『ムーン・パレス』を返してほしい」というダイレクトメッセージを送っていた。正直言って、貸した本を返してもらいたいという気持ちはなかった。もう一冊買った方が安いし早い。ただ、少なくとも彼女は、僕の読書リストを見ていた。僕は自分の読書経験を参照して『ムーン・パレス』を貸したのだ。今や、彼女は僕の読書が外の世界と繋がっている世界で唯一の証だった。

「忘れてた! ごめん、すぐに返す!」と彼女は返信してきた。「あと、『ムーン・パレス』、面白かった」

 こうして僕たちは高田馬場のサンマルクで一年ぶりに会った。美梨は『ムーン・パレス』の感想を述べてから、オースターの他の小説も読んでしまったと言った。『ミスター・ヴァーティゴ』が一番だと言っていた。僕は『ムーン・パレス』がやはり一番だと言った。それもわかる、と言われた。

 夕方になると、少しだけ勇気を出して夕食に誘った。彼女は「いいよ」とうなずいた。うろうろ歩いて見つけたガストで食事をした。僕たちはほとんど生まれて初めて、お互いについて話した。例の、読書好きの先輩への片想いは成就しなかったらしい。ドイツ語のクラスにオダギリジョーに少しだけ似ている人がいて、今はその人のことが気になっているという。彼の写真を見せてもらったが、どこがどう似ているのか一切理解できなかった。

 僕は入学してすぐ付き合ったバイト先の女の子と別れたばかりだった。

「何が理由で別れたの?」と美梨に聞かれ、僕は「付き合う理由がなくなったから」と答えた。

「うわ、冷酷」と美梨は言った。

 食後に美梨が「何か新しい本が読みたい」と言ったので、僕たちは書店へ向かった。本棚の前を歩きながらカート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を選び、彼女が購入するところを見届けた。携帯の電話番号を交換して、夜の十時ごろに僕たちは解散した。

<第3回に続く>

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