悲しみとともにどう生きるか (集英社新書)
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“私だけの悲しみ”を他者の物語にしない。言葉を以て悲しみと生きる【読書日記37冊目】
2021年1月某日
逃げてきたんだ。
実家に到着し、リュックに入れて背負ってきた猫を部屋に放った瞬間にそう思った。寂しかったことに気づくのは寂しくなくなったときだとよく言うけれど、安全な場所に来て初めて、自分が危険な状態にあったことに気づく。
何か大切な存在を失ったとき、あるいは文字通り想像を絶する事態に見舞われたとき。
「深い傷つき」という言葉ではあまりに軽すぎて、「傷つく」とか「痛い」というよりも「世界の見え方や感じ方が変わる」というほうが適切な気がする。
「何が安全で何を危険と思うか」の認知が変わる。
安心できる場所でしか感情を知覚することさえできないのに、感情を知覚しないために、あえて危険とされる場所に特攻していったのかもしれない。予想外の事態を避けるようにして、「想定内の危険」という“安心”に飛び込んでいったのかもしれない。
性被害、離婚、DV、それに伴う心身症、社会からのまなざし……そうした“傷”を永遠に忘れることはない。けれど、“こちら側”に戻ってくることはできる。まるでパラレルワールドとの往還のようだと、記憶の走馬灯を眺めながら今にな…
2021/2/8
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悲しみとともにどう生きるか (集英社新書) / 感想・レビュー
trazom
世田谷事件の被害者遺族である入江杏さんが主宰するグリーフケアを目指した集い「ミシュカの森」での講演集。心に響く言葉に多く出会う。柳田邦男さんの「死の人称制(二・五人称の死)」、星野智幸さんの「沈黙を強いるメカニズムの暴力」、東畑開人さんの「ケアとセラピー、アジールとアサイラム」、平野啓一郎さんの「分人」。「被害者遺族らしく生きろ」と強いる社会ではなく、「個人の哀しみを準当事者として皆が支え合う社会」を求める平野さん。当事者と非当事者という二項対立ではなく、「準当事者」という意識を持つことの大切さを思う。
2023/08/29
たかこ
入江杏さんは、世田谷一家殺害事件の被害者である。被害者家族というカテゴリーでくくってしまうのはよくないが…。柳田邦男、若松英輔、星野智幸、東畑開人、平野啓一郎、島薗進、どの先生方の言葉も胸にささる。「日々ともに生きてきた人との死別は、大きな衝撃となって人々を襲う。」「今、悲しみの中にいる人も、悲しみを知る者だからこそ、誰かを幸せにできるし、自分自身が幸せを得ることもできる。」「やはり死者の唯一の願というのは生者の幸せだと思うのです。その人がどんなに苦しい死に方をしたとしても、そこは揺るがないと思います。」
2023/08/10
pohcho
「世田谷事件」の被害者の姉が開催する「ミシュカの森」での講演とトークセッション。星野智幸さんの今の社会に対する危機感、「大きな物語に対抗するには個人の言葉を探し続けることが必要」という言葉に共感。心理学者の東畑さんの話も興味深かった。(「居るのはつらいよ」以前から気になっているのでいつか読みたい)平野啓一郎さんの死刑制度の話にはとても考えさせられた。悲しみとともに生きること。悲しみを抱えた人を社会全体で支えていくこと。団結ではなくゆるやかなつながりが今、求められているのだと思う。
2021/01/21
読特
殺人事件の遺族が主催する「ミシュカの森」で死刑反対を語る~家族を失う。喪失感に浸る。対応すべき現実がある。喪失と立ち直りの間で揺れる時。グリーフケア、さりげなく寄り添い援助する。事件や事故の報道。死者が出る。遺族の気持ちは図りしれない。第三者でいてはいけない。我々の社会で起きたこと。準当事者、二・五人称で受け止める。遺族というカテゴリー。そこは共通だが、それとは違う属性がある。遺族もいろいろ、思いもいろいろ。一律に見てはいけない。ケアに答えはない。ささやかな6人のメッセージ。示唆されたままに受け止める。
2021/10/03
鴨ミール
家族や友人の死を経験すると、悲しみから立ち直れないと感じることがある。(それはペットも同じ)生きている限り、この苦しみや悲しみからは誰も逃れられないものであるからこそ、そのときにどうしたら良いかという言葉を求めてしまうのかもしれない。この本は、世田谷事件の被害者となった宮澤泰子さんの妹さんである入江杏さんが立ち上げた「ミシュカの森」(悲しみについて思いを馳せる会)での六人の講演や寄稿を収録した本。 個人的には平野啓一郎さんの章を期待していた。もちろんこちらも読み応えがあったが若松英輔さんの講演も良かった。
2020/12/31
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